真実の道−ガザ地区における倫理観の明暗

菊田浮海男様、万里子様、イエス・キリストの名において、ご挨拶申し上げます。

私は、ビクター・ハフィチャックと申します。マーク・万里子 ベンソンのイエス・キリストの内なる兄弟です。私はお二人に、何年か前、カナダのアルバータ州、ウエスト・ラリーコロニーにてお会いし、お会いできたことに感謝しています。また、マークと万里子が今回、日本でお二人にお会いしたときのことを聞き、それにも感謝しています。

私がこの手紙を書いている理由は、菊田さんが、人間の教えと神の真実との矛盾にある程度気づいていることにより、混乱し、傷ついているということをマークから聞いたからです。

あなたはもっと何かを神から欲しているのにもかかわらず、自分のいる状況から抜け出せられない罠にかかっています。なぜだかお教えしましょう。あなたは、神、イエス・キリストの意志の、間違った、ニセモノにだまされているからです。菊田さんがしなければならないことは、次の通りです。

「それから、イエスは弟子たちに言われた。“だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」 (マタイによる福音書 16章24-26節)

あなたは、両方の世界にしがみつくことはできないのです。イエスは、それをとても明確にしています。どちらか一方のみで、両方はあり得ません。

「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイによる福音書 6章24-34節)

もしあなたが神の国を選ぶなら、あなたは人の国を捨てなければなりません。それはつまり、菊田さんが今いる、人の名(フッター)でつくられた国のことです。そうです、浮海男さん。マークから、菊田さんはフッターという名前なんてどうでもいい、肩書きやレッテルなどは些細なことにすぎないとおっしゃっていたと聞きました。あなたは、そういいつつも、それと同じ団体の習慣や伝統に縛られているのです。それについてイエス・キリストが言っていることは、以下の通りです。

「イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』 あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」 また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。」(マルコによる福音書 7章6-9節)

(あなたは彼らと同一の伝統を守っていないのかもしれませんが、衣服の規定やそのほかの多くのことをもっています。)

イエス・キリストが約束しているのは、これです。

「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」(ヨハネによる福音書 14章21節)

これが本当であるということを、私たちは証言できます。それは、私たちが聖書や神が述べた言葉を信じるからだけではなく、神は神の言葉にこれまでも忠実であり、私たちはその忠実さを経験してきたからです。

自分自身に問いかけてみてください、神は信頼のおける存在ですか。

自分自身に問いかけてみてください、私(浮海男、万里子)はそれを信じていますか。

自分自身に問いかけてみてください、神に従うことは正しいことですか。

自分自身に問いかけてみてください、もし私がいのちを欲しかったら、私には選択肢がありますか。

自分自身に問いかけてみてください、もし私たちが神に従ったら、私たちは死にますか。

自分自身に問いかけてみてください、もし死ぬことが神の意志だったら、私に心構えはできていますか。

あなたは、ご自分の年齢について気にかけていたそうですね。

自分自身に問いかけてみてください、神は、神に従う誰でもに対し、信頼のおけない存在ですか。

年をとることについてはどうでしょう。ダビデは、次のように言いました。

「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。その人はいつも情け深く人に貸す。その子孫は祝福を得る。悪を離れて善を行ない、いつまでも住みつくようにせよ。まことに、主は公義を愛し、ご自身の聖徒を見捨てられない。彼らは永遠に保たれるが、悪者どもの子孫は断ち切られる。」(詩篇 37章25-28節)

私たちは、菊田さんとカナダでお会いしたとき、お二人の中にいのちと希望を見ました。その後お二人とそれ以上関わることがなかったので、あなたの心が 神を習い、私たちとの親睦が深まるという気持ちになることを祈りつつも、そうならなかったことに悲しく思っていました。これまでの何年もの間、私たちは主があなた方の道を開いてくれることを祈り続けていました(マークは、あなたたちが本物の“信じる者”であると信じています)。

あなたがたとえどんな対価を払うことになっても、過去にしがみつくことはできません。手放してください。神を信じて。次の通りに、神は、忠実な方です。

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイによる福音書 6章19-34節)

あなたは、あなたの魂をもって、誰に信頼を置くのでしょう、物理的なものを提供するフッタイライトにですか、それとも無限に、より重要な-いのち-そのものを与えるイエス・キリストにですか。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」(マタイによる福音書 10章28-31節)

イエス・キリストを“人の前で認める者”になるという意味は、伝統や宗教活動ではなく、自分の十字架を負い、神について行くことです。 次に書いてある通りです。

「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。」 (マタイによる福音書 10章32-35節)

もし神に従うなら、あなたは人に反対され、憎まれることになることをイエス・キリストは約束しています。

「さらに、家族の者がその人の敵となります。」(マタイによる福音書 10章36節)

これが意味するのは、すべての「家族の者」、つまり「フッターの家」も含まれています。私は本当に、フッター自身も、人々が彼の名を使って今日していることをよく思うとは思えないのです。

フッタライトのやり方は、多くの点で神と矛盾しています。あなたはそのやり方で歩いてきて、その報いをそれに応じて受けているのです。「良」と「悪」を混ぜ、神を喜ばせることはできません。神は何よりも混ざり物を憎んでいます。

「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。 (ヨハネの黙示録 3章15-19節)

(何年も前に私たちが送った長い手紙を受け取りましたか?)

イエス・キリストに従い、生きるための慈悲を菊田さんが見つけますように。そうでなければ、あなたの神との隔たりの中で、あなたは(霊的に)死ぬまで、しおれていくでしょう。神はあなたのために、もっとよい計画をもっています。

菊田さんが、今いる罠から抜け出し、神を従うことによりあなた自身が救われ、聞き、信じるよう祈ります。そうなれば、どんなに素晴らしいことでしょう!

ビクター

 

翻訳 Mariko Benson
Translated into Japanese by Mariko Benson

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