真実の道−クリスマス、それは悪魔の欺き

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ああ、待ちに待った喜びいっぱいの“祝日(ホリデー)”、クリスマス。世界はほかのどんな行事よりもクリスマスを待ち望んでいるように見えます。遠くから帰省して家族や友人が集まれる年に一度のとき。財布の紐(ひも)がゆるんで、いつもより寛大な気持ちになるとき。雇い主たちは普段より少しゆったりとして、スタッフには寛大に、日ごろの感謝をプレゼントやボーナスなどで表現します。個人や企業はチャリティで貧しい人たちに寄付をし、人々はギフトや贈り物を贈ったり、電話やパーティーなどであいさつを交わしたりします。また、普段教会に行かない人たちが教会に行くための、年に何度かの機会でもあります。しかし、この祝日(英語でホリデー「holiday」=holy「神聖な」+day「日」)には、残念ながら全く「聖なる日」という意味はなく、また神が定めた祝日でもありません。

クリスマスとは、なんて偽ものの神なのでしょう!異端者(不信心者)のための、なんて“聖なる”祝いであることでしょう!そして、いわゆる“クリスチャンたち”にとって、なんてうっとりするようで、なんて大事な、なんて嘘にまみれた祝い!

「クリスチャンでありながら、どうしたらクリスマスを祝わないでいられるのですか?!キリストの誕生を信じないのですか。救い主の誕生を祝うことが、どうしたら間違いになるのですか。もしなにかひとつ、祝う価値があるものがあるとしたら、クリスマスではないのですか。もし神が生まれていなかったら、私たちには希望がありません。あなたは、今までにクリスマス気分を味わったり、クリスマス精神を経験したりしたことがないのですか。他人に施すことを考えないのですか。」このような、クリスマスを祝う理由に関する感情論をよく耳にします。

一見してクリスマスは、最もすばらしく、自分のためではなく周囲の人のための、楽しくて純潔な、さらにはこの世の中で最も信心深い、神の行事のひとつだとみなされています。しかし実際は、道理に反した、変態欲や戦争、犯罪やわいせつが渦巻く、思いつくかぎりほとんどの悪事がはびこった最も邪悪で破壊的な行事のひとつです。その理由をこれから、単なる意見としてではなく、事実と真実によって説明します。そしてその真実というのは、毎日の生活の中の地に足ついた現実からの真実、そして経験からの真実です。人々は、聖書にクリスマスの基盤があるはずだと誤解していますが、人々がそう思って使っている聖書のまさにその一節一節から、神の御前でクリスマスが犯罪であり、その犯罪をそうと知らずに楽しんで犯していることについて、その真実を説明します。神は、神の民とそうではない人々の両方がクリスマスによって傷つけられているという事実を憎んでおり、そして、神はとても傷ついています。

人は神が愛するものを憎み、人は神の憎むものを愛するということをあなたは知りませんでしたか。神を信じないものが、クリスマスを愛するということはどうでしょう。世界中の人々が邪悪の中に生き、クリスマスを愛しているということはどうでしょう。「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。(ヨハネの手紙一 5章19節)」クリスマスが世界中で人々に尊ばれるものであることが否定できますか。「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。(ルカによる福音書 16章15節)」と書いてありませんでしたか。

クリスマスは元来、清いものでも、いいことでも、聖なるものでもありませんでした。ただこの世の混乱のうちに、不信論者の影響を受け、都合よく加えられたり減らされたりして、商業化されました。むしろそれは異教徒の祝いであり、偶像崇拝であり、迷信であり、悪です。そしていわゆるクリスチャンたちは、クリスマスを自分たちが楽しむための道具として、さらには、神を信じていない人々をその楽しさでキリスト教におびき寄せるための道具として政治的に用いました。

「クリスマス」(Christmas)という言葉は、神からきたものではなく、ローマ・カトリック教会に起源をもちます。カトリック教会の“ミサ”(カトリック教会で聖体拝領と呼ばれる式をミサと呼ぶ。「キリスト(Christ)」と「ミサ(Mass)」から「クリスマス」(「Christ-Mass」→「Christmas」)となった)からきた言葉です。ミサの主な考え方は、いわゆる“全質変化”として知られる奇跡によるもので、牧師が5つの呪文を唱えると、パンとぶどう酒が主イエス・キリストの肉と血に聖変化するという説によるものです。教会員やミサの聖職禄受領者であると名づけられた人々の罪は、生贄として神に供えられます。礼拝の中でそれを受けたい人が前に進み出て、主イエス・キリストの肉と血、つまりパンとぶどう酒を受け取るのです。このミサは世界中で、毎週日曜日に行われています。ほかの曜日に行うところや、毎日行うところ、さらには一日一回以上行うようなところまであります。私の理解ではミサは、実際に何度も何度も主をはりつけにして苦しめているだけです。単なる記念的な儀式としてではなく、現実に(もちろんそこで物理的にパンとぶどう酒が神の肉と血につながっているというわけではありませんが)生贄として神を犠牲にして傷つけています。キリストのミサ(そして「=クリスマス」も)という名をつけておきながら、やっていることは神を傷つけることだとは、ずいぶんなことです。

カトリック百科事典やブリタニカ百科事典含め、多くの百科事典が、クリスマスはキリスト教初期の頃から、キリスト教に全く起因していないといっています。本当に全く、いつの時代でも、クリスマスは本物のキリスト教信仰に起源をもちません。しかし4世紀頃になって、クリスマスが「キリスト教徒」の祝宴として明らかに取り入れられました。紀元前3000年のエジプトで、オシリス(古代エジプトの幽界の王)とイシス(古代エジプトの豊饒と受胎の女神でオシリスの妻)という異教の神々をあがめている慣習と伝統から、その主要な要素を借りて、‘その’行事が「キリスト教徒」のものにすりかえられたのです。あなた自身で歴史を暴きたいという読者の方々のために、あまり細かい事実をここで掘り出してしまうつもりはありません。インターネットなど、多くの情報源から探し出してみてください。しかしながら、情報のみでは、そこにあるスピリットや真実を知ることはできません。神と神の記したものこそが、あなたに完全な理解を与えます。

自分がクリスチャンだという人がはじめに自問自答しなければならない質問は、1、なぜクリスマスを祝うのか、そして、2、神は私たちにクリスマスを祝って欲しいのか、ということです。聖書の中には、クリスマスを祝うことについて、何ひとつ記述はなく、それをほのめかすような部分さえも存在しません。逆に、神がそれを欲していないということは、多くの部分で読み取ることができます。厳粛な祝いについては書かれていますが、注目してほしいのは、その“厳粛さ”です。お祭り騒ぎではなく、厳粛な祝いが、ユダヤ人が守るべきこととして、神によって命じられたということです。これらの祝いは、それぞれ、私たちにとって神の死であり(過ぎ越しの祭り)、神が私たちに聖霊を与えて私たちが神の中に生き、神が私たちの中に生きることであり(五旬祭)、神が私たちとともにこの地球上で神の中に満ち、神との統一感があり、神の中に安らいで生きること(仮庵祭)を祝うものです(この3番目の仮庵祭を“神の再臨”を表しているという人もいます)。

その3つの祭りの記述の中で、イエスの誕生を祝うべきだと示唆しているところはどこにもありません。事実、神が生まれたその日には、公式な発表などは全くありませんでした。ほんの何人かの牧者と何人かの外国人が知らされたぐらいの、ひっそりとしたものでした。どうして一般大衆への告知がなかったのでしょうか。せめて友人たちや親戚らには知らせなかったのでしょうか。どうして教会や、信心者たち、最高法院や祭司たちにも知らせなかったのでしょうか。なぜかをお教えしましょう。神がその誕生についてあまり公けにしなかった理由は、神の肉体の誕生がそれほど重要ではなく、主の死こそが重要だったからです。主の肉が死に、すべての創造物がその死の結果、救いをもたらされたのです。神の不朽の再誕こそが私たちにとって価値のあることで、それははじめから予言されていたことでした。

「ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。『あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。 (中略)イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」(ヘブル人への手紙 10章5-10節)

私たちの救いは、神の誕生によってではなく、神の死によってやってきます。イエス・キリストがよみがえった意味とその重要さを通し、私たちにもイエス・キリストのような力が、神からの特権として与えられるのです。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ人への手紙 2章20節)

誕生日を祝うことについて、聖書の中で誕生日を祝っているのは、不信心者のみです。ヘロデ王が誕生日を祝ったときのようにです(ところでそのとき、神を信じる者「洗礼者ヨハネ」の命が、信じない者「ヘロデ王」の誕生日祝いの代価となりました)(マルコによる福音書 6章を参照)。主は、神を信じる者が誕生日を祝うことについて、これまで一度も記録していません。なぜでしょうか。それは、神が、今この次元における存在を重要視してはいないからです。一方で、呪術者達は、悪の手先であり、欲望に満ちた世俗的な人生を与えてくれたサタンをあがめるため、誕生日を重要視して祝います。クリスチャンとして神が命の源であると知っている者ならば、私たちは清められるまで、その世俗的な人生とは敵対関係にあり、清められた後、私たちの身体が不朽の魂としてよみがえるのです。身体は塵として元に戻るのです。

「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」 (伝道者の書 12章7節)

伝道者の書(7章1節)には、「死ぬ日は生まれる日にまさる」とも書かれています。

それでは、12月25日という日付に関してはどうでしょう。信頼性のあるどんな歴史家も、聖書の研究家も、イエスがその日に、またはそれに近い日にでも生まれていないことは、明白だと言っています(研究者たちは、牧草地に羊飼いがいたという聖書の記録によって、そして徴税が行われる時期によって、見解を出しています)。しかし、12月25日という日は、古代ローマの異教の神である太陽神ソルの誕生の祝宴の日ではあります。イエスが生まれた日については(私が知っている限りでは)誰も知りません。神が定めた祝いや、神を信じる者、信じない者両方の、多くの証人の証言によると、彼がいつ死んだのかはわかっています(過ぎ越しの祭り)。だとしたら、なぜ神の身体的な誕生日が記録されていないのでしょうか。なぜなら、誕生日を祝うことは人間が価値を置いているほど、大切なことではないため、神が隠したのです。神の誕生日は祝うべきではない。そのことがすべてを語っているとは思いませんか。

それでは、様々の装飾品はどうなのでしょう。聖なる花輪(リース)や、ヤドリギや、ユールロッグの形をしたケーキ、クリスマスツリーは、どうなのでしょう。すべて、異教の習慣からきたものです。たとえばヤドリギは、“繁殖力”を表しています。なぜ人々がその下でキスをするかというと?これらの起源は、調べたり、魂的な理解をもとに判断したりすることで、簡単に真偽を見極めることができます。

サンタクロース(セイント・ニコラス=サンタクロース)はどうでしょうか。その起源に関する説にはいろいろありますが、たとえば、聖人(=サンタ)は小さい妖精ですか?肥満の?彼らには魔法の力が(意味が違うので“奇跡”とはいいません)あるのですか?サンタが小さい妖精だとしたら、タバコを吸っているのはどういうことですか。もしそんなサンタでしたら、彼らは、多くの人が考えるような、最も聖なる主への祝日を代表する例にはなりません。聖人は、こっそりと、いらないようなプレゼントをもってきたりしますか。

あなたは、空想の世界のサンタクロースなんか、本当には信じてはいないというかもしれません。サンタクロースは無垢で、楽しくて、害のないものだと言うかも知れません。しかし、それは違います。聖人とは、イエス・キリストが聖霊を与えた、主の中に居住するものです。聖人は、小さい妖精やおとぎ話ではありません。イエス・キリストのものは何であっても、決して作り話や嘘と混同するべきものではないのです。

無邪気でも、無害でもない、反キリスト精神の入り混じったサンタクロースを使い、あなたの子供たちに嘘をつくのはなぜですか。いいことを教えるはずのクリスマスに、メインであるサンタクロースが、魔法使いと霊(異教の神話の伝統では、サンタクロースは暖炉の中に生きている霊)に欲望や悪への堕落を足してできたキャラクターであるとは。・・・もしあなたが真実を信じているはずの信仰者として、そういう小さなことでさえも嘘をついている親なのだとしたら、なぜあなたの子供たちは、あなたを信じなければならないのでしょう。親が子供に嘘をついてはいけないと言っているのに、親自身が子供に嘘をつくのは、矛盾していて偽善ではありませんか。全部が楽しみのためだから、とあなたは言うでしょう。私たちがつく嘘のために、主の人生が損害であり、犠牲であるのに、私たちはただ楽しいからといって、それを続けるのですか。真実と嘘を混ぜることは、いい食べ物に毒を混ぜるのと同じようです。

神は混ぜ物や妥協が大嫌いです。

イエス・キリストがラオディキアの教会へ告げた言葉「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」(ヨハネの黙示録 / 3章 16節)を考えてみてください。

また、神が「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり(後略)」(マタイによる福音書 12章30節)を考えてみてください。中立の立場など、あり得ないのです。

ノアと洪水の時代を考えてみてください。神はすべての肉体を滅ぼしました。なぜなら、信じる者たちが信じない者たちと混ざり、結婚して子供をもうけていたからです(創世記6章)。

ソロモンが異教徒と結婚したときのことを考えてください。ソロモンは、この世の中で一番優れた知恵を与えられていたにもかかわらず、彼は妻の誘惑に陥って異教の神を崇拝することになってしまいました。

アロンの息子たちナダブ、アビフを考えてみてください。彼らは神に要求されることも命令されることもなく、自分たちのやり方で神に捧げようとして、そしてすぐ後に殺されてしまいました(「ナダブとアビフは、規定に反した炭火を主の御前にささげて、死を招いた」(民数記 26章61節))。

サムソンを考えてみてください。神を信じていない者デリアという女に妥協したために、神が聖別の油(神に定められた人)によって彼の人生に与えた偉大な力にかかわらず、彼は目を失い、自由を失ったのです。

イスラエルについて考えてみてください。ユダヤ人が約束されたカナンの地に入ろうとしたときに、神様に住民を滅ぼせと命じられていたのに、ヨシュアらが一行を信用し妥協して殺さなかった人々によって、それが彼らにいばらの運命を残したのです(ヨシュア9章)。

聖書の「サムエル記」を読んでみてください。サウル王の息子ヨナタンが、ダビデと兄弟のように仲がよくよく、ヨナタンはサウル王がダビデの命をねらっていることをダビデに警告しましたが、最終的にヨナタンがダビデとは一緒にならずに、自分の父サウルの軍に残ったために、父サウルとともにある戦闘の中で死んでしまいました。神はヨナタンのどっちつかずの心のために、彼の命を守らなかったのです。

神は混ぜ物が嫌いです。混ぜ物は死への道だからです。「疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。」(ローマの信徒への手紙 14章23節)と、パウロがローマ人たちに言っているとおりです。

それでは、物を与えることについてはどうでしょう。与えることは、よいことなのではないですか。もちろんそうです。よいことであるだけではなく、それこそが命そのものです。しかし、クリスマスは与えるものではなく、もらうことばかりだとあなたは知っていましたか。異教者たちは、彼らの神をなだめるために、彼らのしてほしいことを嘆願するために、肉体の喜びをほしいままにするために、敬虔さからではなく、自分本位のわがままさから彼らの神を祝います。「太郎ちゃん、もしいい子でいたら、コンピューターをクリスマスに買ってあげよう」という話の持っていき方に、自己中心的ではない“与え”はどこにあるのですか。賄賂や脅し、なにかもらえるかどうかに関係なく、正しいことのためによい子でいることに何の悪いことがあるのですか。もらえるからあげるのですか。誰が誰に、なぜあげるのでしょうか。たいていは、贈り物やクリスマスカードや招待は交換します。そしてもし贈り物が貧しいものに与えるものならば、その貧しいものが貧しいのは、クリスマスの間だけですか。クリスマスだから、ひもじい者を家に招きいれて、そうでない一年のほとんどの間はクリスマスではないからといって、彼らに振り向きもせず、何もしないのですか。救い主の誕生日というのは、一年のうちのたった一日の価値しかないのですか。

クリスマスは、ひとつの大きな嘘であり、自分勝手で極悪非道の、“よい”と“本物”の代用品です。

“与えること”は聖書に基づいていないのでしょうか。聖書に与えることについて書かれてはいますが、クリスマスでやられているような方法ではありません!イエスが生まれたときに東方の賢者(占星術の学者)たちがきて主に贈り物をおくったので、多くの人たちがクリスマスはクリスチャンから贈り物をあげる時だと思い込んでいます。しかし、まず、贈り物というのは与えられるものであり、交換するものではありません。2つ目に、聖なる子(イエス・キリスト)だけが贈り物を与えられ、ほかには誰も与えられません。3つ目に、みんながみんな贈り物を贈ったわけではなく、ただの王ではない、天の星によって預言されて語られた王(イエス・キリスト)の誕生を誇りに思って来た人のみが贈ることができたのです!羊飼いたちは贈り物をもってきませんでしたが、贈り物を持参することを期待されておらず、最大の贈り物、つまり、イエス・キリストとの出会い(!)を除いては、何も受け取ることもありませんでした(「ルカ」2章)。

あなたのクリスマスプレゼントはどんなものか聞かせてください。おもちゃとか、宝石とか、本とか、ぜいたく品とか、ゲームなどですか…。それらの贈り物と主イエス・キリストに一体どんな関係がありますか。そして、プレゼントは誰にあげるのですか。あなたにとって意味のある誰かにしかあげないのは、わがままではないのですか。そしてもし相手がお返しくれなかったら、あなたは一体どれぐらいの間、その“あなたにとって意味のある人”にプレゼントを贈り続けるのですか。これでも、クリスマスとは、与えることがすべてですか。それとも、賄賂、良心の慰め、獲得、報酬、義理、しきたり、伝統、イメージ、人間関係などを守るためですか。

クリスマスの金儲け主義はどうでしょう。特に欧米では、多くの人がクリスマス後の借金地獄に苦しんでいる事実はどうですか。多くのビジネスがクリスマス営業の結果により、一年の営業結果が左右されるというのはどうでしょう。

お酒を飲みすぎることは、クリスマスの典型的実態のひとつです。私がいたカトリックのクリスマスパーティーもそうでした。真夜中のミサのコーラスで、ウイスキーの助けを借り、あんなにも高いテノールのキーを、なんと見事に歌ったこと!酔っぱらって神をあがめる歌を歌っていたとは、なんという矛盾。そしてご存知の通り、クリスマスにアルコールを好むのは、カトリックだけではありません。

アルコールの飲みすぎは、死を招きます。多くの人々は、父親を亡くし、子供を亡くし、配偶者や友人を、クリスマスの時期に失っています。私たちにいのちを与えるために来た人、そしてそれをもっと豊かなものにするためにやってきた人の誕生を祝うはずのクリスマスに、多くの人が死んでいるのです。

神を信じているはずの人々(教会の人々)のほとんどは、このことを直視したり認めたりしようとはしないのですが、聖書では、大酒飲みと大食家を同じように扱っています(「酒にふける者と、肉をたしなむ者とは貧しくなり、眠りをむさぼる者は、ぼろを身にまとうようになる。」(箴言 23章21節))。多くの人はクリスマスで大食いしても、酒は飲んでいないので、酒を飲む人たちの方に向かって優越感を感じている人々がいます。しかし、神によると、彼らは同じだけ罪なのです。食べすぎの人と飲みすぎの人と、どこが違うのですか。ある民族では、祝いのごちそうの準備にかなり力を入れます。私の民族もそのひとつでした。私はよい食べ物や豊富な食べ物を非難はしませんが、クリスマスに大食いや大酒がともに許されるのはなぜでしょう。それは、クリスマスが本当の聖霊の祝いではなく、肉体からの欲を満足させる祝いだからです。

「それでは、異教の神々や異教の伝統とは関係なく、正しい理由からクリスマスを祝うことはできないのですか」とあなたは聞くでしょう。その質問はまるで、このように尋ねているのと同じです。「どうして私たちは異教の祭りをクリスチャンの方法で祝ってはいけないのですか」。私はこう答えます。「どうしてあなたはクリスチャンなのに、異教の祭りを祝いたいと願うのですか。クリスチャンとして、ほかにもっとやるべきことはないのですか。神を知ることにも仕えることにも興味がない人がつくったお祭り騒ぎで必死に欲望を満たすしかないほど、神にはそんなに満足感がないのですか。あなたは神の徳を経験したことがないのですか。もしないのでしたら、あなたはその不満足感の解決のために、異教徒(神様を知らない人)ではなく、神のところに行く必要があります。肉体ではなく、魂のところへ、そしてこの世の中のものに満足を求めるのではなく、神に向かう必要があるのです」。

それでは、クリスマスについて、神は何というでしょうか。「よく気をつけ、彼らがあなたの前から根絶やしにされて後に、彼ら(神を信じない人々)にならって、わなにかけられないようにしなさい。彼らの神々を求めて、“これらの異邦の民は、どのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう。”と言わないようにしなさい。あなたの神、主に対して、このようにしてはならない。彼らは、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行い、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえしたのである。あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを、守り行わなければならない。これにつけ加えてはならない。減らしてはならない」(申命記12章30-32節)。

「いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。」(コリントの信徒への手紙一 10章20-22節)

モーゼは書いています。「イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちがかつて住んでいたエジプトの国の風習や、わたしがこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない。その掟に従って歩んではならない。」(レビ記 18章2-3節)

私は、キリストの名を語る人たちがクリスマスを祝うが故に、彼らに大きな苦難がのしかかっているのを見たことがあります。ハロウィーンやバレンタインデーのような祭りで、ハロウィーンのコスチュームやバレンタインのチョコレートのような、祝いに使われる物理的な物にでさえ、まるで強い磁石が小さな金属を引き寄せるように、神の怒りが引き寄せられているということについて、神は私の目を開いてくださいました。これはもしかしたら迷信のように聞こえるかもしれませんし、神を信じるものや、私が遺憾に思ういわゆる“信仰者たち”の間にも迷信というものは数多くあります。しかし私が今言っているのは迷信ではなりません。兄エサウの恐れの中にいたヤコブは、兄エサウがいた彼の父親の国に向かって進んだとき、彼らの異国の神々を捨て、身を清め、着物を着替えることを家族に言いませんでしたか。イスラエルの子供たちは何度も何度も、彼らの神々や、もっていても害がないと思うものでも破壊しろと言われませんでしたか。いいえ、神の怒りはどんな形であろうと、クリスマスを祝う人たちの上にふりかかっています。特に神の名を語っている人々の上に、さらに、神の人々の上には、もっと激しい怒りがふりかかっています。光を与えられれば与えられるほど、要求されることも多くなります(「(前略)すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」(ルカの福音書12章48節))。

「ヨハネの黙示録」の17、18章にでてくる大淫婦バビロンとは、偽ものの宗教すべてを表しています。異教の起源をもったクリスマスもそこからきています。神は神の人々に、偽ものの宗教について、次のように言っています。

「わたしはまた、天から別の声がこう言うのを聞いた。“わたしの民よ、彼女から離れ去れ。その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神はその不義を覚えておられるからである。」(ヨハネの黙示録 18章4-5節)

「…(前略)“倒れた。大バビロンが倒れた。そして、そこは悪霊どもの住みか、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた忌まわしい獣の巣窟となった。すべての国の民は、怒りを招く彼女のみだらな行いのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女とみだらなことをし、地上の商人たちは、彼女の豪勢なぜいたくによって富を築いたからである。”」(ヨハネの黙示録 18章2-3節)

クリスマスを20年以上祝ってこなかった私ですが、今でもよく覚えているのが、クリスマス・スピリットというものです。クリスマスの魂に巻き込まれた誰かがやってくるとき、なんという気持ちのよさが舞い込むのでしょう!このシーズンだけの短い間ですが、平和、喜び、好意を感じます。しかし、本物を経験した人にしかわからないことですが、こういった感情というのは偽ものです。皆さん、これらの感情とは、魅惑的な悪魔以外のなにものでもなく、神とは何の関係もありません。クリスマスの間にそのスピリットの中で人々ができる、あらゆることを考えてみてください。それが、あなたが知らなければならないことをすべて物語っているとは思いませんか。神の魂の中に生きるものが、ほかの何百万人もの人たちがしているのと同じように、まだ楽しんだりできますか。クリスマスと関係なく、本物の本質ある毎日を送る方がいいとは思いませんか。神を信じている限り、両方を選ぶことはできないのです。

特に、幼年時代からクリスマスを祝って育ってきた私には、私の家族、友人、仲間すべてが、私が過去にしてきたようにそれを祝い、楽しんでいるのを見て、そこから離れることは容易なことではありませんでした。それは人を魅惑するスピリットであり、とても楽しいものですが、私はそれが最終的にはどんなにはかなく、虚しさを残すものなのか、まだ覚えています。

クリスマスは約束でいっぱいで、私が知っている限り、ほかの大きな祝日にはないような空虚感を、人々に残します。多くの行事にはクリスマスほどの大きい期待はなく、あるがままです。クリスマス以外の行事では、神を言及することもなければ、神をたたえるようなふりも、スピリットもありません。約束がないので、期待もありません。しかし、クリスマスのスピリットは人を欺き、嘘の約束をして美徳のふりをするので、多くを虐殺します。

人々が私に「メリー・クリスマス」と願うとき、私は自分の中でこう考えます。「クリスマスの魂が、アルコールのように最初飲んだときは気持ちがよくて飲みすぎを誘い、次の日に二日酔いになり、時にはそれがひどすぎて死ぬことさえも願いたくなるような、そんなに陰険で意地の悪いことを、私は敵にさえも望まないぞ」と・・・。あなたは、異教の慣習に度を過ぎるほど欲望を満足させたり、参加したりはしないと議論するかもしれませんが、しかし、考えてみてください。祝いに参加する人が皆経験している、クリスマスのスピリットこそが、私たちが普段から気がついている悪を許したり、ときには助長させたりしているのです。

クリスマスにはどうして悲しみがつきまとうのでしょう。なぜさびしさや貧しさをより激しく感じるのでしょう。なぜ後悔や不快な思い出や、そんなに強い落ち込みがあるのでしょう。なぜ自殺や、病院送りになる人や、その他の不快なことが起こるのでしょう。なぜなら、クリスマスはすべての人の幸福と健康を約束するものだからです。それはつまり、私たちが誰であろうと、何であろうと、どこにいようと関係なく、楽しい時間を過ごすべきだということをほのめかしているからです。人々があまりにも最善を目指しすぎるため、その結果がっかりすることが多いのです。友人や親戚が、来られなくなった。誰かがクリスマスカードを送らなかった。または、送られたカードがあまり素敵ではなかった。または、ある人があなたの知っている誰か別の人に送ったカードの方が、あなたに送ったものより素敵なものだった。誰かが祝いの電話をするのを忘れたか、または電話しても話すことがなかった、等。

そして最悪なのは、愛する人をクリスマスに失うことです。それは、たとえば7月に誰かを失くすよりも、もっと失っているからですか。そうではありません。それはただクリスマスが、あなたの楽しみと幸せと満たされていることに、義務を負わせるからです。あなたの子供のひとりがちょうど末期ガンになったり、近しい人が会社をクビになったり、あなたが離婚協議の最中にいたり、借金取りが借金の返済をせまってきたりしていると、理想のクリスマスが成就できていないことになり、不満に思うのです。

神がそんなに彼の人々を欺いたり、裏切ったりしますか。もしクリスマスが神の祝福であるのなら、それには悲哀がないはずです。

「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」(箴言 10章22節)

しかし、クリスマスは人間のものであって、神のものではありません。あなたはそれが神のものであるのに、人間がそれを台無しにしてしまったというでしょう。いいえ、クリスマスは神に全く起源しないので、クリスマスに本当の満足感というものは、これまでにも、そして、これからもあり得ません。逆に、クリスマスが神のものでないからこそ、子供が病気になったり死んだり、離婚に苦しんだり、借金地獄に陥ったりする人がいるのです。

幸福と満足感というのは、空間や時間や境遇によって限られず、また、限られ得るものでもありません。どちらにしても、幸せかどうかということは、世の中の考え方とは反しますが、問題ではありません。「あなたが幸せかどうか、それだけが大事」ということをよくききます。それこそ見るも恐ろしい誤信です。もし幸福だけがすべてだとしたら、イエスは十字架によって苦しむことはなかったことになります。

イエスは「幸せの価値」に重きを置くペテロを非難して言いました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイによる福音書 16章23節)

そうです。今の世のために生き、今を楽しんで生きようとする人たち(それはまさにクリスマスの目的そのものですが)は、自分の命を救いたいと思うためにそれを失い、主のために命を失う者は、それを得るのです。真の現実は、世の中の人が考え、物を見るのとは、全く逆のものです。

「弔いの家に行くのは、酒宴の家に行くのにまさる。そこには人皆の終りがある。命あるものよ、心せよ。」(コヘレトの言葉 7章2節)

ここで少し聖書の中の「クリスチャンとは何か」という定義について触れます。本物のクリスチャンとは、神と直接出会ったことがあり、少なくとも悔い改めをしたことがあり、神のスピリットをもらっていないとしても、人々の前で恥じることなく主イエス・キリストが救い主であることを公に告白し、この世のものからではなく、神によってのみ満足を得る人。聖書に関心をもち、聖書を愛し、その中の言葉ひとつひとつを魂の食べ物とみなし、多くの事柄について神の声をきき(神の羊は彼の声をきく)、神とともに歩むためには対価が何であってもそれを払い、宗教的にではなく現実的に、理論的ではなく実用的に、言葉ではなく行動で、その信仰をあらわす人のことです。

あなたは、こう尋ねるでしょう。「もしクリスチャンがクリスマスやイースター(イースターについては、『間違いだらけの教義シリーズ18:イースターはキリスト教、聖書起源のものである(英語のみ)』をお読みください)を祝ったり、世間のパーティーに参加したりしないとしたら、彼らは楽しみのために、何をするのでしょう。」私は、あなたにこう尋ね返します。「楽しいかどうかは、そんなに大切な問題ですか。“仕事、仕事、で遊ばないのは、退屈な人”と言われます。そうかもしれません。しかし、私はその反対のことをよく見かけます。街中やコンビニの駐車場で、だらしなくしたりタバコをふかしたり、皆同じような服を着て同じことをして、なにひとつ価値のあるようなことをしない人たち。空虚で、物憂げで、みじめで、ごちゃごちゃで、自分たちがカッコイイかのようにふるまい、何も問題はない、すべてが大丈夫だと言いつつも、実は退屈で仕方がない人たちをよく見かけます。家庭でも同様に、リクリエーション、パーティー、ビデオゲーム、テレビに長時間を費やすか、またはドラッグ中毒になっている人たちも多くいます。そういった人たちとは、知性のある会話をすることが非常に難しくなってきています。

一方で、喜ぶべきことに、若い人たちの中にも、一生懸命働き、遊ぶことにはあまり時間を費やさず、一緒にいることが興味深く、人生を必死に生き、彼らの考えや言葉に本質をもち、くそまじめというわけではなくて気持ちのいいまじめさをもっている人たちと関わったことがあります。彼らに対して私は、目的や、成熟さや、正直さ、周りへの尊敬、責任感、安心、希望が見え、それらはすべて、遊んでばかりいる人たちの中には見つけることができないものばかりです。いつも働いているかどうかが問題なのではなく、神の恵みが与えられているかどうかということで、それは一握りの人だけが与えられていることです。これでも楽しむことは重要でしょうか。いいえ、重要ではありません。

私自身のクリスチャンとしての喜びや満足感は、主の意思を実行しているかによります。主の意思を実行しているかどうかが、私たちの喜びを左右するのであれば、それを実行しないことは、つまり、喜びを得られる機会を自分から逃していることになります。私がキリストの誕生を祝うのに、一年待ったり、1日に限ったりする必要はありません。キリストの誕生を祝う私の祭りは私の中にあり、神の復活も私の中にあり、私もまた、彼の中で生まれ変わりました。そして、祝うのは神の誕生だけでなく、神自身です。祝うこと、それとも、祝われるもの、どちらが優れているのでしょう。神自身よりも、祝って価値のあるものがありますか。すべてを創造した神よりも、より本物の心地よさや、平和や、喜びや、充足感(超本物で、世の中が与えてくれるようなものとは違うレベルのもの)を、与えることが、ほかの誰かにできますか。キリストが神自身について言いました。「私が来て、彼らは人生を得るかもしれない。彼らはより豊かにそれを得るかもしれない」。神がそのようなことを(何度か他の機会を含め)言ったとき、神は嘘をついていたわけでも、愚かに節度なく話していたわけでもありません。神は、今までも、そしてこれからも、彼の約束を果たすことに不可能はありません。もしあなたが本当に神を信じるのでしたら、神こそが真実であり、あなたは世の中の祝いや喜びに頼る必要はありません。

私が、あなたがクリスマスを祝っているのを見たり、または、あなたが祝わないように頑張っているのに失敗しているのを見たからといって、私があなたを非難したり、批判的であったり、あなたを落ち込ませようとしているとは思わないでください。私には、それがどんなに大変なことかわかっています。私もそうでした。ただ正直になって、そのまま前に進んでいってください。神の意思として、あなたがどうするべきかを、神に向かって、探してください。報いはそこにあります。神は誠実な方です。

クリスマスに関する、より細かなジャーナリズム的情報について知りたい方は、インターネットで検索してみてください。異教の伝統、崇拝についての歴史的事実や研究については、アレキサンダー・ヒスロップ(Alexander Hislop)による、『2つのバビロン(原題:Two Babylons)』に詳しく書かれており、インターネット上で無料ダウンロードできるはずです。見つけられない方は、どうぞご連絡ください。

神の意志を探求する人々には、神によって、クリスマスの魂から救われるという恵みが与えられます。

Victor Hafichuk

ビクター・ハフィチャック

翻訳 Mariko Benson
Translated into Japanese by Mariko Benson

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